モスキートは疑いなく航空史上最高傑作機のひとつに数えられるであろう。 その高速を生かして戦闘機、偵察機、爆撃機としてあらゆる戦線で活躍した万能機で各型合わせて6,479機が作られた。 しかしその誕生は容易ではなかった。
デハビランド社は従来木製構造で高速の旅客機や練習機を得意としていたが、ヨーロッパで戦雲が迫ってくるにつれて軍用機の増産が急がれ、旅客機の注文が無くなるという状況の中で、軍用機を手掛けたことがないデハビランド社としてはどこかの下請けで作らざるを得ない状況になりつつあった。 そこで1938年、自主開発で全木製、双発の高速爆撃機の開発を始めたのである。 防御火器はいっさいなく高速で敵戦闘機を振り切ろうというものであったが、この思想はなかなか軍の受け入れるところとはならなかった。 過去にブリストル社が開発したブレニム爆撃機、ドイツのドルニエ D0-17 がこの思想であったが、戦闘機の速度向上が著しく速度だけで振り切るのは難しいことが分かっていたからである。 しかしRAFは写真偵察に使える適当な機種をもってなかったことと、計画されている大型爆撃機の大量生産によりアルミニューム不足が心配されるなど木製のモスキートに有利な条件が出てきたので空軍のフリーマン中将が乗り気になり、1939年、第二次世界大戦が勃発する直前にようやく軍の開発命令が出され、1940年11月25日初飛行を行うところまでこぎつけた。 試作機はいきなり最高速度640km/時を記録、すばらしい運動性を示しテストの最初から大成功であった。1941年9月、写真偵察型が初めて実戦に参加、フランス上空で襲ってくる3機のメッサ―シュミットBf109 を持ち前の高速で簡単に振り切り、その設計方針の正しさを証明した。
モスキートの成功の秘密は高速化を図るために胴体をできるだけ小さく細くし、かつ液冷式のロールスロイスマーリンエンジンを2基装備して流線形のナセルをつけ、全体的に空気抵抗の少ない優美な機体にしあげたことにあった。 胴体の表皮は軽量のバルサ材を表裏から薄い合板で挟んだサンドイッチ構造がとられた。 胴体は左右部分を別々につくり、配管配線や艤装をすべて取り付けたあとで左右を張り合わせるという特別な工法であった。 まず片側の胴体の局面構造に合わせて作られた木型に1.5mmから2mmの厚さの合板を張り付け、そのうえからバルサ材を接着剤で張り合わせる。 さらにそのうえから外皮となる薄い合板を接着剤で接着する。 翼もすべて木製であった。
開戦後英独ともに戦闘機の護衛を伴わない白昼の爆撃行は自殺行為に近いことを身をもって知らされていた。 しかし護衛する戦闘機の航続距離が短く作戦の範囲が限定されていたが、モスキートの登場で白昼特定の目標をピンポイントで攻撃できるため各戦線からひっぱりだこになり、司令部の悩みはどこにモスキート部隊を割り当てるかということであった。
モスキートはモスキートは10年にもおよび生産され、42の型があったがすべて基本の機体は最初から同じであった。
形式:高高度写真偵察機 エンジン:ロールスロイス マーリン72液冷 1,680 馬力2基 最大速度:652km 巡航速度:402km/時 上昇率:869m/秒 上昇限度:11,582m 航続距離:3,942km 自重:6,608kg 全備重量:9.980kg 全幅:16.51m 全長:13.56m 生産台数:7,785(各型合計)
Elke C. Weal “Combat Aircraft of World War Two”, Arms and Armour Press, London 1977 Bernard Fitzsimons ed. “The Illustrated Encyclopedia of 20th Century-Weapons and Warfare” Vol.21 Ed.: David Donald “Encyclopedia of World Aircraft” Prospero Books 1999 William Green “War Plane of The Second World War Vol.6” Doubleday & Company, 1960 Enzo Angelucci & Paolo Matricardi “World War 2 Airplanes”, Rand McNally, Chicago 1978 Bill Gunston "Fighting Aircraft of World War II" Prentice Hall Press 1988