1939年川崎航空機の設計技師土井武夫はわずかな暇を見つけては従来の常識を破る超高性能戦闘機の構想を練っていた。 しかし日本陸軍は開発途上にあるキー61飛燕の目途がつくまで開発力を分散させることを禁じていたので、超高性能戦闘機については据え置きとなっていた。 1940年10月になってようやく時間の余裕ができるようになったので新戦闘機の開発に着手した。 目標は高度5,000mで時速700kmを出し、高度5,000mまで5分で達することという野心的な計画であった。 エンジンは川崎航空機の明石工場で開発していたハ201エンジンを使う予定であった。 このエンジンはドイツのダイムラーベンツ社のDB-601を国産化した液冷12気筒のハ40エンジンを2台組み合わせたもので、一台は機首に他の一つは操縦席の後ろの配置というタンデム構造で、二つの互いに反対方向に回るプロペラを駆動するという野心的なものであった。 おそらくもっとも変わった機構は蒸発熱を利用したエンジン冷却システムであろう。 これはドイツのハインケル社からアイデアの提供を受けたもので、冷却媒体は水を使いエンジンの熱で蒸発するときの蒸発熱でエンジンを冷却し、蒸気となったものを主翼やフラップで冷却して水に戻すという仕掛けである。 そのために両翼に70リットルの水タンクを備えていた。 主翼は層流型を用い、中に燃料タンクを組み込み、2門の20mm機関砲がつけられた。 まったく新しいエンジン冷却システムは入念なテストが繰り返され1943年12月になってようやく信頼性は十分であるとの評価が下された。 この冷却システムのおかげで最高時速が40kmほど増える見通しであったが、反面胴体のスペースが少なくなり搭載燃料が減り航続距離の低下を招くことになった。 1943年12月からテスト飛行が始められたが5回目の飛行でエンジン故障のため緊急着陸を余儀なくされた。 修理のためエンジンは明石工場へ機体は岐阜工場に送られたが修理完了まえに終戦になってしまった。 結局アイデアは野心的であったが当時の日本の工業技術がそれに追いつかなかったということであろう。 終戦直後に調査にやってきた米空軍のデルワース大尉はキー64についてつぎのように報告している。 「キー64の設計はエンジンをタンデム配置している点で日本の飛行機のうちでは比類のないものであり、その翼面蒸気冷却法は米国の設計者などの興味をひくであろう。 同機の設計は良好であり米国機に比べて優るとも劣らないものである」
形式: 単発重戦闘機 エンジン:川崎ハー201液冷24気筒2,310馬力武装:20mm機関砲4門 最大速度:690km/時(高度5,000m) 上昇時間:5分30秒(5,000mまで) 上昇限度:12,000m 航続距離:1,000km 自重:4,050kg 全備重量:5,100kg 全幅:13.50m 全長:11.03m 生産台数: 1
William Green “War Plane of The Second World War Vol.3” Doubleday & Company, 1960
Rene J Francillon “Japanese Aircraft of the Pacific War” Putnam Aeronautical Books 1988
Bernard Fitzsimons ed. “The Illustrated Encyclopedia of 20th Century-Weapons and Warfare Vol.7”
Chris Bishop ed.“The Complete Encyclopedia of Weapons of World War 2”, Prospero Books, 1998
”日本陸軍機の計画物語” 航空ジャーナル1980別冊
土井武夫 ”飛行機設計50年の回想」
岡村 純他“航空技術の全貌” 原書房