日本

1941年12月の真珠湾攻撃は世界を驚愕させるに十分であった。 それまで欧米の設計をコピーした複葉で固定脚を持った飛行機しか持っていないと信じられていた日本軍が世界最高水準の戦闘機を持ち、機動部隊という組織で運用して見せたのである。 しかし当時は無敵とみられた零戦も戦闘を重ねるうちに、その高性能は防弾をまったく無視して得られた軽量化によって得られたものであることが分かったのである。 最初の打撃から立ち直ったアメリカが質量ともに優れた飛行機をつぎつぎと送り出してくることとともに防弾の欠如により、日本側が熟練したパイロットを失っていったことから戦力のバランスが急速に変わり、戦争の後半はほとんどアメリカの一方的勝利に終わることとなってしまった。日本が懸命に開発した新型機も基礎工業力の不足から故障に悩まされ能力を発揮しないまま終戦を迎えることとなったのである。 陸軍と海軍に協調性がまったくなく似たような機種の開発に手を出し、さらに終戦間際まで意味があるともいえない多数の機種の開発を続け、ただでさえ少ない設計人員を分散させることになった。  

陸軍 (箱の写真のものはまだ未完成)

  

戦闘機


   

爆撃機


   

その他


海軍 (箱の写真のものはまだ未完成)