1934年という年は日本海軍にとっては記念すべき年であった。 96式艦上戦闘機(A5M)にならんで96式陸上攻撃機という世界水準を超える航空機を始めて保有することになったからである。 この96式陸攻は山本五十六の先見の明の賜物であった。 1933年、海軍航空本部技術部長であった山本は空母搭載機とは別に陸上基地使用の長距離機の必要を感じ、三菱に双発の長距離偵察機の開発を命じた。 本庄末男技師が担当した本機は社内ではKA-9という型式で1934年4月に初飛行した。 優れた運動性と5,800kmに及ぶ航続距離に狂喜した海軍は続いて爆撃機型を発注した 。爆撃機型はKa-15という型式を与えられ、800kgの爆弾または魚雷を搭載、防御火器は7.7mm旋回式機関銃3挺であった。 Ka-15は1935年7月に飛行し、以後順調なテストを続け翌年6月、96式陸上攻撃機として量産が開始された。 ここに日本海軍は始めて世界第一流の中型攻撃機を持つことになったのである。 1937年8月14日、支那事変勃発1週間後台北にあった96式陸攻部隊は悪天候をついて中国の漢口を目指し、世界でも始めての渡洋爆撃を敢行した。 続いて翌日九州の大村基地からも渡洋爆撃が行われた。 しかし援護戦闘機の航続距離外のこの攻撃は中国戦闘機隊の反撃で手痛い損害を蒙っていたのである。 太平洋戦争が始まったとき海軍は第一線に204機の96式陸攻を保有しており、1941年12月10日元山、美幌両航空隊の60機の96式陸攻は26機の1式陸攻とともにイギリス戦艦プリンスオブウェールスとレパルスをマレー沖で撃沈するという偉功を立てた。 洋上を航行する戦艦を航空機が撃沈した世界でも始めての例であった。 しかしこの頃には旧式化が目立ち第一線は1式陸攻に置き換えられ始め、96式陸攻はグライダー曳航、爆撃訓練、海洋哨戒などの後方任務に退いていった。
形式: 爆撃機 エンジン:三菱金星空冷1,075馬力2基 最大速度 373km/時(4,180高度 m) 巡航速度 278km/時 航続距離:4,380km 上昇時間:8分19秒(3,000mまで) 上昇限度:9,130m 自重:4,965kg 全備重量:8,000kg 全幅:25.00m 全長:16.45m 武装:20mm旋回式機関砲1門、7.7mm 旋回式機関銃4挺、爆弾800kgまたは魚雷1個 生産台数:624
Elke C. Weal “Combat Aircraft of World War Two”, Arms and Armour Press, London 1977
Enzo Angelucci & Paolo Matricardi “World War 2 Airplanes”, Rand McNally, Chicago 1978
Bill Gunston “Fighting Aircraft of World War 2”, Prentice Hall Press 1988
Bernard Fitzsimons ed. “The Illustrated Encyclopedia of 20th Century-Weapons and Warfare Vol.10”
Chris Bishop ed.“The Complete Encyclopedia of Weapons of World War 2”, Prospero Books, 1998
Rene J Francillon “Japanese Aircraft of the Pacific War” Putnam Aeronautical Books 1988
航空情報編 「日本軍用機の全貌」
岡村純他「航空技術の全貌」原書房