局地戦闘機、英語ではインターセプターと呼ばれる上昇力に優れ侵入してくる敵爆撃機を阻止することを目的とした戦闘機が海軍で本格的に検討されはじめたのは世界の大勢と日華事変の戦訓からであった。 昭和15年4月、三菱一社指定で計画要求書が交付された。 ほぼ零戦の設計が終わっていた堀越二郎がふたたび担当した。 海軍の要求では速度、上昇力が第一で運動性、航続距離は二の次といういままでの概念を打ち破るものであった。 また操縦席の後に防弾板を設けるというのも画期的であった。
本機の性格上大馬力のエンジンが必要であったので三菱空冷十四気筒で1300馬力の火星エンジンを採用した。 このエンジンは外形が大きかったので前面抵抗を減らすため、プロペラをエンジンから離して前方に配置し、前部を細く絞る構造となった。 さらに冷却ファンを使って小さいエンジン前面開口から十分な冷却空気が入るようにした。 そのため太い胴体と細く絞った前部が独特の精悍なすがたを形成することとなった。
設計がはじまった昭和15年はまだ零戦の実戦参加への準備、中島への生産移管、続発する部分的改良要求など設計チームに対する負担は過大なものがあった。 しかも過労のため堀越をはじめ技術者が病に倒れるなどの障害はあったが、試作第一号機は予定通り昭和17年3月に初飛行した。 飛行安定性や操縦性はきわめて良好であったが、視界が悪いことが欠点であった。 その年の10月、雷電11型(J2M2)として制式採用されたが、エンジン馬力不足、プロペラの振動問題に悩み、さらに海軍の生産計画の変更が相次ぎ終戦までの生産は476機にとどまった。 あるアメリカの雑誌のなかで、捕獲された多くの日本の戦闘機を操縦したアメリカ人パイロットは「「雷電」は操縦がしやすくもっとも優れた戦闘機である。 上昇力はきわだっており、アメリカのP-51Cムスタングより高度6000mには一分も早く到達した。 三菱の設計陣が本機にもっと努力を傾注しておればすばらしい戦闘機になっていただろう」といっている。 日本本土を爆撃したB-29のパイロットもこの「雷電」をもっとも警戒したといわれている。
形式: 迎撃戦闘機 エンジン:三菱MK4R-A 空冷1,800馬力 最大速度:584km/時(高度 5,450m) 巡航速度 352km/時 航続距離:1,900km 海面上昇率 1,170m/分 上昇限度:11,700m 自重:2,490kg 全備重量:3,680kg 全幅:10.8m 全長:9.94m 武装:20mm機関砲4門 生産台数:476
Elke C. Weal “Combat Aircraft of World War Two”, Arms and Armour Press, London 1977
辻 俊彦「零戦ーアメリカ人はどう見たか」芸立出版
William Green “War Plane of The Second World War Vol.3” Doubleday & Company, 1960
Rene J Francillon “Japanese Aircraft of the Pacific War” Putnam Aeronautical Books 1988
Enzo Angelucci & Paolo Matricardi “World War 2 Airplanes”, Rand McNally, Chicago 1978
Bill Gunston “Fighting Aircraft of World War 2”, Prentice Hall Press 1988
Bernard Fitzsimons ed. “The Illustrated Encyclopedia of 20th Century-Weapons and Warfare Vol.7”
Chris Bishop ed.“The Complete Encyclopedia of Weapons of World War 2”, Prospero Books, 1998
“Air Enthusiast” July 1971
Gert W. Heumann “Design Profile”
渡辺洋二 “局地戦闘機雷電” サンケイ出版 第二次大戦ブックス
岡村 純他“航空技術の全貌” 原書房