日本陸海軍は日本本土へのB-29の来襲でいままで考えていなかった高高度まで急速に上昇できる迎撃戦闘機を緊急に開発する必要にせまられることになった。 運よくドイツではこの種のロケット戦闘機メッサーシュミットMe-163を1943年から開発中であったのでその機体とロケットエンジンの製造権を取得することができた。 しかしそれらの技術的資料、ロケットエンジンを積んだ2隻の潜水艦のうち1隻がシンガポールで撃沈されてしまい、日本に手に入ったのは海軍技術将校巌谷英一中佐が別途持ち帰った外見図面、取扱説明書などだけであった。 日本海軍は1944年7月19試戦闘機として三菱に試作命令を出した。 陸軍も多大な興味を示し本プロジェクトは最初から陸海軍共同となった。 従来つねにセクショナリズムをあらわにして互いに協力を拒んでいた日本陸海軍としては画期的なことであった。
海軍ではJ8M1、陸軍ではキ-200の型式を与えられ機体のモックアップは1944年9月に完成した。
海軍は三菱に発注すると同時に横須賀の第一海軍航空技術廠に対し飛行特性の検討とパイロット訓練のためのグライダーバージョンの製作を命じた。 この試作第一号は型式名MXY8(秋草)を与えられ1944年12月に完成、茨城県の百里が原飛行場に運ばれた。 試作グライダーは九州K10W1にけん引されて離陸した。 尾翼のない特異な形状であったが操作性は良好でさらに2機が作られ、1機は立川の陸軍航空技術研究所に送られた。 実機と同じ状態での飛行性能を評価するため三菱では試作の最初の2機をロケットエンジンと燃料と同じ重さの水を搭載する改造が行われ1945年1月百里が原飛行場で天山(B6N1)に曳航されて離陸、満足な飛行性能が確認された。
ロケットエンジン搭載の試作機(J8M1)第一号は1945年6月に完成、同7月に初飛行が行われた。 しかしその初飛行で急上昇中にエンジンが故障、墜落してパイロットの犬塚大尉は命を失ってしまったのである。 試作6号機と7号機にエンジンの燃料供給システムに改善を施す作業が進められている間に終戦となってしまった。
軍は三菱他に武装として2門の30mm機関砲を備えることや燃料をもっと多くした局地戦闘機の大量生産を計画していたが実現することはなかった。 かりに大量生産が行われたとしても本機のように滞空時間が7分というように極端に航続距離が短い戦闘機では敵機の来襲の方向、高度、速度に合わせてタイミングをみはからって発進せねばならず、それにはレーダーによるよほど精密な誘導が必要で、アメリカやイギリスのようなマイクロ波レーダーを持たない日本の技術力では望むべくもなかった。
形式: 迎撃戦闘機 エンジン:特呂二号推力1,500kg 最大速度:890km/時 航続距離:5分30秒 上昇力:3分(高度10,000mまで) 自重:1,505kg 全備重量:3,885kg 全幅:9.5m 全長:6.05m 武装:30mm機関砲2門 生産台数:3
Enzo Angelucci & Paolo Matricardi “World War 2 Airplanes”, Rand McNally, Chicago 1978
Rene J Francillon “Japanese Aircraft of the Pacific War” Putnam Aeronautical Books 1988
Bernard Fitzsimons ed. “The Illustrated Encyclopedia of 20th Century-Weapons and Warfare Vol.7”
Chris Bishop ed.“The Complete Encyclopedia of Weapons of World War 2”, Prospero Books, 1998
Enzo Angelucci “The Illustrated Encycropedia of Millitary Aircraft 1914 to presrnt”, Chartwell
岡村 純他“航空技術の全貌” 原書房