1928年に設立されたPZL社は若き天才プラウスキ技師を雇い、高性能の戦闘機の開発に乗り出した。 その結果がP.1に始まるガル翼の単葉戦闘機シリーズである。 最初の試作機P.1はパイロットの上方視界を改善するためにガル翼を採用し、全金属製という当時としては画期的な構造であった。 初飛行は1929年9月、エンジンに600馬力の液冷式イスパノ.スイザを装備、時速300kmを超える高速とすばらしい上昇力と運動性で1930年に行われたブカレスト.エアーショウではイギリス、フランスをさしおいて世界最高の戦闘機であることを証明した。 しかしポーランド空軍は空冷エンジンを使用することを主張したのでP.1は量産に至らず、空冷のノ-ム.ローヌ.ジュピターを装備してP.7として生産に入った。 P.7戦闘機は生まれてまもないポーランド空軍の中核となった。 P.11はその後継機種である。 生みの親であるプラウスキ技師は飛行機事故で亡くなったが、ヤキミク技師が後を継ぎ1931年9月初飛行した。 この機体は1932年のパリ航空展覧会に展示された。 その抜群の運動性の良さでただちに正式採用となり1933年から生産が始まり、翌年からポーランド空軍へ引渡された。 量産型はブリストルエンジンのライセンス生産版のスコダ.マーキュリーⅣ-S2(500馬力)を装備し、武装は7.7mmブローニング機関銃2挺であった。 第二次大戦が勃発してドイツ軍が侵入してきたとき、ポーランド空軍の戦闘機隊は主として125機のP.11からなっていた。 1939年9月1日未明、奇襲してきたドイツの急降下爆撃機ユンカ-スJU87の機銃掃射をかいくぐって離陸したナイ中尉の操縦するP.11がドルニエDO-17E爆撃機を撃墜してドイツに対する初勝利を記録したのを始めとして、質量ともに圧倒的に優勢なドイツ空軍を相手にP.11はよく戦い、126機のドイツ機を撃墜したと報告されている。 この間P.11の損失は114機であった。
形式: 単座戦闘機 エンジン:スコダ製ブリストル.マーキュリーVIS.2 空冷 645馬力 武装:7.7mm機関銃2挺 、 最大速度:390km/時(高度5,500m) 上昇時間:6分0秒(5,000mまで) 上昇限度:8,000m 航続距離:700km 自重:1,147kg 全備重量:1,800kg 全幅:10.72m 全長:7.55m 生産台数:約330
Elke C. Weal “Combat Aircraft of World War Two”, Arms and Armour Press, London 1977 William Green “War Plane of The Second World War Vol.3” Doubleday & Company, 1960 Bill Gunston “Fighting Aircraft of World War 2”, Prentice Hall Press 1988 Bernard Fitzsimons ed. “The Illustrated Encyclopedia of 20th Century-Weapons and Warfare” Vol.19 Chris Bishop ed.“The Complete Encyclopedia of Weapons of World War 2”, Prospero Books, 1998 Enzo Angelucci & Paolo Matricardi “Combat Aircraft of World War 2 1933-1937” Bartlomiej Belcarz “White Eagles- The Aircraft,Men and Operations of the Polish Air Force 1918-1939” Hikoki Pubrication Jerzy B. Cynk “Polish Aircraft 1839-1939” Putnam, London, 1971 Dr.Jan Koniarek “Polish Air Force 1939-1945” Squadron/Signal Publications