ボーイングB-29は第二次世界大戦で日本に屈服をもたらし戦争にピリオドを打ったという功績のほかにも技術的な面でも画期的進歩をした航空機として記憶されるべきものである。 これだけ時代に抜きんでいてしかも複雑なシステムを戦争中とはいえわずか4年間でなしとげたアメリカの航空機設計製造水準の高さを知らしめた功績も偉大なものがあった。
B-29は1938年3月にアメリカ陸軍から現用爆撃機のボーイングB-17に高高度飛行のために与圧キャビンを採用し前輪式の降着装置をつけることを研究するように要請があったことから始まった。 しかし第二次世界大戦はまだ始まっておらずアメリカ陸軍としても急を要する計画ではなかったため予算が現用のB-17の生産にとられ、本計画に対する予算が当てられなかったのでボーイング社は自費プロジェクトとして始めたのである。 1939年7月B-29の原型とみなされるModel344Aのモックアップが完成した。 1940年1月陸軍は新型超大型爆撃機の具体的な仕様を発表した。 それは最高速度640km/時、9トンの爆弾を搭載して4,200km先の目標を爆撃して帰ってこれるだけの航続距離を持ち、十分な防御火器、防弾装置を備えるという当時としてはとてつもない要求であった。 これに対するボーイング社の答えはModel345として1940年5月にアメリカ陸軍に提出された。 この開発計画は軍の関心をひきXB-29の型式名を与えられ試作機2機の発注をみたのである。
1941年5月には250機のB-29が発注され、太平洋戦争が始まった後の1942年1月にこの数字は500機に増やされた。 さらにその年の2月には製造はボーイング社だけではなくベル、ノースアメリカン、ゼネラルモータースの一部門であるフィッシャーなどでの生産が計画された。 まだ設計図段階にあって一機も飛んでない状況でこのような全国的な生産プログラムが実行されるのは航空機史上で前代未聞のことであった。
与圧キャビン装備の爆撃機、リモートコントロール式の防御火器、比類のない爆弾搭載量と航続距離と初めてづくしで重量増加もたいへんなもので本当にそのような爆撃機ができるのかアメリカ陸軍航空本部も半信半疑なところもあったがボーイングの設計陣には自信があった。
B-17のような人力による防御火器の操作も検討されたが与圧キャビンにするには難があるため尾部銃座を除いてはすべてリモートコントロール式で操作することになった。
与圧キャビンについてはボーイングModel307旅客機のように胴体すべてに適用するのは爆撃機では不適当と考えられ、乗員がいるところだけに限られることになった。 操縦席と胴体中央部との間にはトンネルが設けられ乗員はこれを通じて移動ができた。 尾部銃座は別に与圧され乗員は低空を飛んで与圧されていない間だけ移動することができた。
エンジンは新規開発された4基のライトR-3350である。 高空で能力を発揮するために各エンジンには2基のターボスーパーチャージャーがつけられた。
第一号機の試作は突貫工事で進められ1942年9月に完成した。 さまざまな技術的難関を克服してB-29が最初に実戦に登場したのは1944年6月のタイのバンコク爆撃である。 これらはインド基地から発進した。 最初の日本本土爆撃は1944年6月中国から発進した47機のB-29によって行われた九州の八幡製鉄所爆撃である。 以後中国を基地とする爆撃行が続けられたが、長い距離の飛行と航法機器のトラブル、さらに天候不良などの原因で損耗率は高かった。
B-29の日本爆撃は太平洋のマリアナ群島が確保されそこに基地が建設されてから本格化した。 1944年11月にサイパン島の基地から初めてのB-29爆撃隊が2400km離れた東京に向けて発進した。 このときは日本の対空砲火の届かない高高度爆撃を行ったので爆撃隊の被害は少なかったが爆撃の精度が悪く効果もかんばしくなかった。
1945年2月になると使用可能のB-29も増え、低空で夜間爆撃を行うことになった。 いままでの高性能爆弾に替えて焼夷弾を使用することになった。 夜間爆撃をすることによって日本の戦闘機による反撃もずっと少なくなるのでほとんどの防御火器は外され機体が軽くなりその分爆弾搭載量が増加した。 2月に硫黄島が奪取されそこに建設された基地から戦闘機の護衛が可能になったがまもなく日本戦闘機が上空から駆逐されてしまったためB-29部隊は日本上空をわが物顔で飛び回ることになった。 そして8月6日と9日の原爆投下により第二次世界大戦は終止符を打たれたのである。 アメリカ軍の記録によるとB-29の出撃数は合計28,839機、損失は334機でこのうち日本軍の戦闘機と対空砲火によるものは合計144機、大半は長距離を洋上を飛ぶため天候不良とエンジン故障で行方不明になったものである。 とくに夜間は日本戦闘機による反撃はほとんどなかったと報告されている。 夜間ドイツを爆撃するイギリス空軍がレーダーを使って迫ってくるドイツの夜間戦闘機のため毎回5%以上の損失をしいられていたのとは大違いであった。
戦争終了によって発注されていた5000機以上のB-29はキャンセルされた。 B-29は朝鮮戦争でも使われたがこのときはジェット戦闘機の時代になっており、ソ連製ミグ15戦闘機の敵ではなかった。 なお中国基地から発進していたころにソ連領内に不時着したB-29がソ連軍の手に入り戦後ツポレフTU-70の型式名で生産されている。
形式: 4発重爆撃機 エンジン:ライト R-3350-23 空冷2,000馬力4基 最大速度:576km/時(高度 7,630m) 巡航速度 370km/時 航続距離:9,010km 上昇時間 38分(高度6,096mまで) 上昇限度:9,708m 自重:31,816kg 全備重量:56,250kg 全幅:43.5m 全長:30.18m 武装:12.7mm 旋回式機関銃10挺,20mm機関銃1門、 爆弾 9,072kg 生産台数:3,905
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