1934年、当時アメリカ陸軍の主力戦闘機であったボーイングP-26の後継を目指してカーチス社の主任設計技師ドン.バーリンは低翼型、全金属モノコック構造で引っ込み脚を持った近代的な戦闘機の開発を始めた。 設計型名モデル75としてエンジンはライトXR-1670-5(空冷900馬力)が選ばれた。 ちょうどイギリスではハリケーンとスピットファイア、ドイツではメッサーシュミットBf109の開発が始まっていたころである。 モデル75の試作は1934年11月に始まり、翌年5月に行われるアメリカ陸軍航空本部主催のコンテストに参加することになっていた。 しかしその時点では競合各社の試作機が完成していなかったのでコンテストの開催が遅れて1936年4月に行われたが、カーチス社は搭載していたエンジンのトラブルが原因で性能が出ず、競合相手のセバスキー社のP-35に敗れてしまった。 それでもカーチス社はその年の7月アメリカ陸軍からY1P-36の型式名で3機の受注をすることに成功した。 3機の受注機は翌年3月に完成、その夏には軍の公式テストに合格することができた。 エンジンはプラットアンドホイットニーR-1830-13ツインワスプ(950馬力)でハミルトン定速プロペラを装備していた。
軍によるテスト飛行の結果は上々でP-36Aの型式名で210機の発注を受け。引き渡しが始まったのは1938年4月である。
しかしP-36の実戦経歴は短かった。 日本海軍による真珠湾攻撃時には旧式化していると判断され、ハワイ諸島に配備されていたP-36はP-40戦闘機に置き換えが進んでいるところであった。 太平洋戦争においてアメリカ軍初めての敵機撃墜の栄誉を受けたもののP-36は急速に前線から下げられ訓練機として使われたのである。
P-36の輸出型であるホーク75戦闘機はもう少し前線生命が長かった。 1938年5月、戦闘機不足に悩むフランス空軍は100機のホーク75A戦闘機を発注した。 これはスロットルレバーの動きをフランス式に変え、武装もフランス製の7.5mm機関銃4挺に替えたもので、ドイツ軍が侵攻してきたときフランス軍としてメッサーシュミットBf109Eの初撃墜を記録するという栄誉を担った。
1939年、武装を強化しエンジンの馬力を向上された型がさらに600機がフランスから受注されたが、フランスに実際に渡ったものは291機だけで、フランス降伏後、残余機はイギリスに引き渡された。
形式: 単座戦闘機 エンジン:プラットアンドホイットニー R-1830-13空冷 1,050馬力 武装:7.7mm 機関銃2挺、爆弾90kg 最大速度:483km/時(高度3,042m) 巡航速度 434km/時 上昇時間:1分0秒(高度1,036mまで) 上昇限度:10,058m 航続距離:1,327km 自重:2,072kg 全備重量:2,726kg 全幅:11.38m 全長:8.68m 生産台数:1,424
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