ヒューズ XF-11 

画像をクリックして拡大

モデルは EXECUFORM製 1/72
バキュームフォームキット

 木製構造の高速機でアメリカ陸軍との契約を取りそこねたハワード.ヒューズは得意の政治力を生かしてエリオット.ルーズベルト大佐(大統領フランクリン.ルーズベルトの次男)を抱き込み、1943年8月陸軍航空本部のハップ.アーノルド将軍に航空写真偵察機でいますぐ開発できそうなのはヒューズ社のD-5という機体だけであるといわせた。 アーノルドはこの意見を入れD-5を100機発注してもよいとの言質を与えた。 ルーズベルト大佐は10月にも陸軍航空本部の首脳の前で、本機を16機使用すれば戦争終結を6~8週間早められるとさえいいきってヒューズを応援したのである。陸軍内部では本機と似たサイズであるローッキード XP-58のほうがいいし、とかく問題の多いヒューズ社を採用すると議会で問題にされる可能性もあるとの危惧もあったがとにかく100機の発注がなされた。 その後ヒューズが軍当局に対してこれまでに投入したD-2の開発費用の補償を軍当局に求めたり、ヒューズ社の主任技師が退職したり、さらに軍が木製構造では強度的に問題があるから全金属製にすべしとの決定をしたりして開発は遅れ、試作機のモックアップができたのは1944年3月であった。 このときにはもとの設計思想が残されていたのは双発双胴の形態だけで中身はまったく別の飛行機になってしまっていた。  1944年始め、ヒューズ社と陸軍は第一号機の完成はその年の11月、月間10機の生産ということで合意したが、ヒューズ社内の労働問題、技術的難関などが片付かないうえ使用予定の3,000馬力のプラットアンドホイットニー製エンジンの納入が1945年9月になってしまう見込みになった。 初飛行はハワード.ヒューズ操縦で1946年4月に行われたが、逆回転するプロペラを組み合わせた2重回転プロペラが滑走中に異常が起こってしまった。 7月に再びヒューズ操縦でロサンゼルス近郊でテスト飛行が行われたが、またプロペラの故障で機体はゴルフ場に不時着、ヒューズは重傷を負ってしまった。  2号機はプロペラを普通のものに替え翌年4月、またヒューズの操縦で行われたが、事故を恐れた陸軍の指定で砂漠にある陸軍飛行基地で行われた。 このころにはジェットの時代になっており、本機の存在意義はまったくなくなっており、1949年11月本プロジェクトは正式にキャンセルされた。 結局ヒューズの道楽のためにアメリカ国民の税金を当時の金で1400万ドル以上をどぶに捨てたことになった。

 
性能諸元(XF-11)

形式:高高度写真偵察機    エンジン:プラットアンドホイットニー R-4360-31空冷 3,000馬力(離昇時) 最大速度:720km/時(高度 10,058m)  上昇率 10m/秒   航続距離:6,435km  上昇限度:12,800m   自重:17,868kg   全備重量:21,546kg  全幅:30.89m   全長:19.94m   生産台数:2

参考文献

F.G. Swanborough “United States Military Aircraft since 1909” Putnam 1963
Rene Francillon “McDonnell Douglas Aircraft since 1920” Putnam Aeronautical Books 1979