1934年、ソ連は旧式化していたツポレフTB-3に代わる高高度長距離の戦略爆撃機の仕様を発布した。 これに応じて開発されたのが本機で当初はANT-42と称された。 A N ツポレフ設計局の作品であることを表したものであるが1940年になって独立の設計局を率いていたペトリアコフの名前でよばれるようになった。
ANT-42の試作機は1936年12月27日に初飛行した。 エンジンはミクリン M-34FRN(930馬力)4基である。 しかしこれだけでは高高度における性能が不足である判断されたのでイスパノスイザ12Yエンジンのライセンス生産版である850馬力のM-100エンジンを胴体内に装備し、コンプレッサーを動かして空気を圧縮してエンジンに送り込む方式が実験された。 これにより高度8,000mで最高速度402km/時を出し敵戦闘機の追尾は困難であろうと推察された。 実際にその高度ではドイツのメッサーシュミット Bf109Bより速かったのである。 このシステムは複雑であり重量増加が大きかったがさいわい1939年後半、本機が生産になるころには新エンジンミクリンAM-35(1,000馬力)が使用できるようになり追加のエンジンなしでも性能がでるようになっていた。 当初はTB-7の型式名を与えられたが1941年にPe-8に変えられた。 1940年に就役し1941年夏に最初の実戦参加としてベルリン爆撃を敢行したのをはじめ敵地深く侵透して爆撃する作戦に参加したのである。
乗員は8人、防御火砲は胴体に7.62mm ShK機関銃6挺、エンジンナセル後部に12.7mm機関銃2挺、胴体後部上面と尾部に20mmShVak機関砲1門づつである。
AM-35エンジンの生産は1941年に中止となり、代替えとして1,250馬力のチャロムスキーデイーゼルエンジンが装備され低燃費のデイーゼルエンジンにおかげで航続距離は伸びたが他の性能がすべて下回ることとなった。 この後いろいろ試されたが1943年シュベトフASh-82(1,700馬力)空冷直接噴射エンジンになって大幅な性能向上が得られた。
Pe-8はDB-3はエンジン交換が相次ぎこのために生産が阻害されたことなどもあるがDB-3双発爆撃機などの活躍で出番が少なく合計で79機しか作られなかった。
形式: 長距離戦略爆撃機機 エンジン: ミクリンAM-35液冷1,350馬力4基 最大速度:438km/時(高度 7,600m) 航続距離:4,700km 上昇限度:7,000m 全備重量:33,325kg 全幅:39.94m 全長:22.47m 武装:20mmShVAK旋回式機関砲2門、7.62mm旋回式機関銃6挺、爆弾 4,000kg 生産台数: 81
Elke C. Weal “Combat Aircraft of World War Two”, Arms and Armour Press, London 1977
Enzo Angelucci & Paolo Matricardi “World War 2 Airplanes”, Rand McNally, Chicago 1978
Bill Gunston “Fighting Aircraft of World War 2”, Prentice Hall Press 1988
Bernard Fitzsimons ed. “The Illustrated Encyclopedia of 20th Century-Weapons and Warfare” Vol.19
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