第一次大戦のころまではロシアは航空機に関してはまったくの後進国で、一大発展をみたのは共産革命が成立しソ連邦となってからである。 西欧の航空機に依存することを嫌ったソ連はツアーギと呼ばれる中央研究機関を創設、全国の優秀な技術者を集め、航空機の自主開発にのりだした。 1928年にはスターリンの指揮のもと航空産業拡張の5か年計画を発表した。 ツポレフ、ヤコフレフ、ポリカルポフ、ミコヤン、グレビッチなど有名な設計者の名前が登場するのはこのころである。 1933年12月に初飛行したポリカルポフ I-16は当時西欧からはなんらの注目をはらわれなかったけれども航空機史上画期的な意味合いを持つ戦闘機であった。 世界で初の低翼単葉戦闘機であり、初めて引っ込み脚を採用した戦闘機であった。 また世界は依然として運動性重視のドッグファイトに固執していたのに対し、I-16は高速での一撃離脱戦法の新しい時代を切り開いたのである。 事実デビューした当時は世界のどの戦闘機よりも速度が100km/時以上も速かった。 またI-16はパイロット保護のための防弾板をつけたこと、また20mm機関砲を装備したことなど世界で初めてである。 零戦が実戦戦闘機として20mm砲を初めて搭載したという意見もあるが、実際はこのI-16の方が2年も早い。 その後の機種の開発が遅れ、1941年、ドイツの侵攻が始まったときも戦闘機隊の主力はこのI-16であった。 さすがに旧式化は覆いがたく、メッサーシュミットBF109Eには歯が立たず数日にしてせん滅されてしまった。 しかし1942年以降は、ドイツ爆撃機の手の届かないウラルの奥地に移した工場からヤコフレフ、ラボーチキンといったドイツ機に優るとも劣らない優れた戦闘機がつぎつぎに生み出され、ドイツの攻勢を押し返したのである。 ソ連機の特徴は徹底的に現実的であることであった。 アルミニューム不足のおそれが予測されることから、機体は木材と金属を組み合わせた構造とし、多くの機種に手を広げず開発を地上軍支援のための戦闘機と地上攻撃機に絞った。 ソ連機というとなんとなくあかぬけしないという印象があるが、エンジン部と操縦席全体を鋼鉄で覆うという画期的な工法を採用した地上攻撃機イリューシンIL-2、洗練された形態を持ち戦闘機にも負けないほどの高速の攻撃機ペトリャコフPe-2など技術的にもみるべきものが多くあった。